こんにちは、原板井まさまるです。
一昨日『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』を見てまいりました。一応鬱なんですけどね、私。
で、結論から申しますと鬱悪化しました。前作にあった多少の希望がすべて打ち砕かれるんですよね、この映画。鬱病のひとは見ないほうが良いですよ。鬱病なのに見てしまった私が言うのも何だけどさ。
お前はアーサー・フレックだけど、「ジョーカー」ではない。
前作の『ジョーカー』で『この世には多くのアーサー・フレックがいる』なんて論評が巻き起こったりもしました。どこかでそれまでなんとか保っていたタガがはずれて、ジョーカーになってしまう、いわゆる「無敵の人」問題ですね。しかしそんな論評に対して、こういう反論もまた多くありました。『お前はアーサー・フレックだけど、「ジョーカー」ではない』と。
つまり、アーサー・フレックは火薬庫なんかではないし、あなたはただの爪弾き者であっても残念ながら (人を害しないのだから、むしろ良いことなのですが) なにかできるわけがないと。
この『フォリ・ア・ドゥ』では、そんな言葉が容赦なく向けられます。誰に?観客に?違います。アーサーにです。
そもそもアーサーは精神的に病んではいましたし、その彼への福祉は打ち切られました (打ち切った当人はジョーカー事件の余波で亡くなりましたが) 。ちょっとずつ彼を取り巻く歯車は狂っていき、もともと爪弾き者だったアーサーはあれよあれよというまに「ジョーカー」になってしまいます。しかし冷静に考えると、今作のジョーカー、というよりこのシリーズのジョーカーはもともとのDCヴィランのジョーカーでしょうか?狂いきって完全に愉快な殺人ピエロのジョーカーだったでしょうか?前作で階段で陽気にピエロメイクでダンスしながらも、車の上で踊り狂いながらも、どこかジョーカーには理性がありました。二重人格でもなく、ジョーカーに変貌したわけでもない。
アーサーはアーサーでしかないのです。
ジョーカーを演じているのは、ホアキンではなく「アーサー」である
3人のジョーカーという言葉があります。ジャック・ニコルソン、ヒース・レジャー、ジャレッド・レトのジョーカーを指し、3者3様に狂いざまを演じ評価されたものです。ホアキン・フェニックスもその名演からもしかしたら4人目の、あるいはレトを押しのけて「3人のジョーカー」に入れられるかもしれません。
しかし本作を見た私は正直、それを望みません。なぜなら、確かにホアキン・フェニックスの演技はすばらしいものだったからです。前後の文脈がおかしい?しかし作品を見ればすべてがわかります。
ホアキン・フェニックスが演じているのは「ジョーカー」ではありません。「『ジョーカー』を演じているアーサー・フレック」だからなのです。
本質的なアーサー・フレックは、売れない (しかも時々理由もなく笑いだしてしまう病気にかかった) コメディアンでしかありません。人を笑わせることさえ満足にできず、できるのは「笑われる」だけ。そんなアーサー・フレックは、しかし懸命にジョーカーを演じ、多くの者を惹きつけます。本作のヒロインであるリー・クインゼル (ハーレイ・クイン) もまたその一人でした。彼女は彼を愛し、彼もまたリーを愛します。しかしアーサーは愛されていませんでした。
リーが愛していたのはジョーカーであり、リーがセックスしたのもアーサーとでした。ジョーカーであったからリーは彼を求め、そして演じきれなくなったアーサーはリーに見放されてしまいます。まあ、そんなリーは、アーサーと別れるとき、妙なメイク (ハーレイ・クインのようなもの) をして現れます。アーサーとの子を身ごもったまま、アーサーへの別れを告げたハーレイはどうなるのでしょうか。これもある意味気になるところですが、捨てられたアーサーは、脱走劇も無意味に終わり、無抵抗に警察に再度捕まってしまいます。
そして彼はラストで、ジョーカーに期待し、アーサーに失望していたある青年に、腹を刺されてしまいます。この青年は途中から登場し、アーサーにジョーカーたれと何度も迫っていました。しかしアーサーはアーサーでしかなく、アーサーになるよりほかありませんでした。青年もまたジョーカー信者だったのでしょう。
アーサーは、「なにもなかった」のか?
そんなアーサーを唯一理解していた男が作中で唯一人登場します。アーサーが「君だけは僕を笑わなかった」として見逃したゲイリー・パドルズ。彼のセリフは旨をえぐります。彼も言うのです。「君だけは僕を笑わなかった」と。
アーサーは、一人ではなかったのに。
狂いきって妙な信者を多数獲得して、そのかわりアーサーはすべてを失ってしまった、本作はそんな映画でした。